日本ポーランド協会 関西センター主催 シンポジウム
ポーランドの貴族とその社会
―華麗なる文化と伝統の源を訪ねて―
「共和国」における貴族と政治文化
2002年7月20日 梅田茶屋町アプローズタワー13階にて
白木太一
ご紹介にあずかりました白木です。さきほど小山さんがオリジナルな興味深い話をされましたが、私は『シュラフタと政治文化』というかなり大きなテーマでのお話です。本日は16世紀から18世紀の頃のポーランドに絞りまして、その中でシュラフタが特に政治とどのように関わっていったのかというようなことをお話してみたいと思います。
さて、16世紀から18世紀のポーランドは、一般に「ジェチポスポリタ」すなわち共和国と呼ばれています。一言で要約しますと『公民が共同で運営する国家』という国名でありますが、この国家では公民の自由と平等というものが最大の基本理念であったと考えられます。そしてこの公民というのは身分としてはシュラフタのみに限定をされていたために、この共和国はしばしば「シュラフタ共和国」と呼ばれます。さきほど藤井先生からお話にありましたように、このシュラフタというのは中世後期の騎士身分が変化したもので、家系としては16世紀以降は父方母方どちらもシュラフタであるというのが前提条件になっていました。人口の8%から10%程度がシュラフタであるということは、ヨーロッパのレベルから見てシュラフタが国の中で占める裾野というものがかなり広いということを示しています。同時に、マグナートから土地を持っていないシュラフタまで非常に社会的な階層としての幅が広いということももうひとつの特徴になるかと思います。
さて、このジェチポスポリタの時代というのは、3つの時期に大別することができます。最初に、おおよそ16世紀の始めから17世紀の半ばまでの時期、この時期にはいわゆる公の自由や平等というものが国の制度として確立して、しかもこれがかなり円滑に定着していった時代ということができます。大きく自由の側面と平等の側面に分けて、特徴を見てみたいと思います。自由の側面では、先ほど年表で説明をされたように、シュラフタが身分としての特権というものを14世紀から16世紀にかけて獲得をしていく、たとえばいわゆるコシツェの特権あるいは人身の自由、それから地方の代表の合意がなければ法案が成立しないという権限、もしくは16世紀の半ばになって定着した「王様は貴族の代表と王に就任する際に約束を結んでこれを守る」というパクタ・コンヴェンタと呼ばれる大原則が課せられます。そしてもうひとつ、先ほど小山先生が話されたように、国王は権限を持つ公民の代表が集まって選挙で選ぶという国王選挙制が16世紀の後半から完全に定着していくことになります。これらの特権の拡大ということから、ヨーロッパ全体と比べてポーランドの貴族の間で、いわゆる絶対君主に対する反発もしくは恐れというものが非常に強かったということが言えると思います。
さて一方の平等という点ですが、すでにお話に出ているように、何十何百の村を持っている、もしくは高い官職を持っているマグナートと呼ばれる人たちから、シュラフタの家系であるけれども土地を失ってしまって生計の手段というものを土地に求められない無産シュラフタというものまで、ポーランドの貴族であるシュラフタの層は非常に広かったわけです。けれども、政治的な権限ということで言いますと、少なくとも法規上・規定上は、「自ら土地を耕して生活をしている小シュラフタといえどもマグナートのシンボルである県知事職ボイェボーダに劣らない」と、そんな言い方がポーランドではよく使われたわけです。こういう状況が、小規模のシュラフタであっても広範に国の政治に関心を持つ土壌を広げていったと言えると思います。国王が自らの権威の象徴として勲章を授けようとしたときにも、これに対して議会が反対をしてそれが没になってしまうということも少なくとも17世紀の段階まではポーランドでは当然のこととみなされていました。また一方、非常に広大な共和国の領土には、民族、言語、あるいは自らの出生地という点で多様な人たちが住んでいたわけですが、シュラフタに関してはウクライナに住んでいようがあるいは大ポーランド地方に住んでいようが、ともに一つの公民である、広い意味でのポーランド人、ポラークであると考えられていました。例えばリトアニアに生まれた貴族というのは、自らの地域の意識としてはリトアニア人という意識を持っているわけですが、しかし公民としては共和国のポラークであると考えていました。19世紀の代表的な作家であるミツキエビッチもまさにこのような意識の中であの『パン・タデウシュ』のような作品を書いたと言うことができるかと思います。
そして政治の制度です。この当時共和国には国の政治機関として、いわゆる議会もしくは国会と呼ばれるものがありました。この議会はいつも開かれていたわけではなくて、基本的には2年間で6週間という限られた期間で開くわけですが、共和国の重要なことは議会の承認を得なければ成立しないという原則が打ち立てられます。同時に議会と対を成していたのが、共和国のいたるところに、60〜70ぐらいでしょうか、ありましたポーランド語でセイミクという地方小議会です。この地方小議会が、いわゆる現代の政治制度で言えば代議士を選ぶ選挙区といったものを持っていまして、議会に進出する代議員を選び、この地方小議会で選ばれた人たちが、地方の意思に添った形で、同時に共和国全体の公益というものを踏まえながら政治を動かしていきます。もちろん王様もいますし、高い地位のマグナートの人たちもいるわけですけれども、こういう形で国と地方のバランスの取れた政治制度というものが、この時期の共和国ではかなりプラスに働いていたのではないかと思います。この最初の17世紀の前半までの時期は、土地を持っている中流シュラフタが国の政治の主体としてかなり自律的に活動し、先ほどお話した自由や平等という点がシュラフタという身分に限っていえばかなり円滑に実現された時期であると、一応まとめておきたいと思います。
さて次の時期ですが、すでに何度か「大洪水」という言葉が出てまいりましたが、ポーランド共和国を取り巻く状況が非常に悪化してきて、17世紀後半以降100年余りにわたって共和国は様々な面で状況が変わってまいります。研究者の中には無秩序という言い方をする人々もいますし、あるいは公的な世界以上に地方の私の世界というものが拡大したという見方もできるかもしれません。いずれにしても、この時期、公の席での主導権を握ったのは貴族の中でもいわゆる大貴族といわれるマグナートで、少し例えが飛躍するかもしれませんけれども、マグナートはそれぞれの地方でいわゆる戦国大名のような形で地方の私的な権利というものを握っていきます。そして、その下に経済力を失ったシュラフタが子分のような形で結びついていく、私的な親分と子分との関係がかなり発展していくことになります。そのような中で、今までは日常の関係で対等な挨拶が一般化していたものが、マグナートに媚を売るような形の挨拶やジェスチャーが拡大していきました。同時に、平等という点を超えて、誰もがもっと上の社会的なステイタスを求めようという意識も強まったと言えるかもしれません。例えば、いわゆる一般の呼び名で、それまではマグナートのみに用いる非常に高い敬称である「閣下」Wielomoz.ny Panが、もうちょっと低い経済的なレベルの人たちにも同じく使用されるようになる。それからもう一つよく挙げられるのは、以前からポーランドでは何々職と呼ばれる官職が地方ごとに非常にたくさんあったと言われています。例えば裁判を行う判事ですとか、あるいは代官なんて呼ばれる人たちもいたわけですが、もっと下のほうのレベルでは、太刀を持つ太刀持ちですとかあるいは旗を持つ旗手とか、そのような職がそれぞれの地方で十数ありまして、その全部を合わせた数で言うと共和国にはおおよそ4万ほどの官職があったと言われています。官職を持つことによってステイタスを獲得しようというシュラフタが16世紀にも増して増えてくるわけです。非常によく言われる例えで、「Szlachcic bez urze,du jest chart bez ogona」つまり「官職のないシュラフタは尾のない猟犬に等しい」などという言い方もありました。おまけにそういう官職をもらえないシュラフタの場合には、例えばポーランドにはカシュテラン(城代)という職があるんですが、実際には本人はそのカシュテランという官職を持ってないけれども、家族をそれぞれ「カシュテランの奥さん、息子さん、お孫さん」と呼び、カシュテランという言葉から派生した言葉を使って自分は何か他の人よりは上だというステイタスの意識を表に出そうとした。ですから、前にお話した平等の理念ということで言いますと、この時期のシュラフタ社会は上にのし上がろうという意識がかなり強まった時代と言ってもいいかもしれません。
そのような中で、政治の面ではあまりいい特徴というのが表に出てこないんですね。一つだけ重要な点を挙げておきますと、議会はそれまでも基本的には全会一致というものを理念として動かされていたんですが、その全会一致を少し拡大解釈して、一人の議員が自分の利害に基づいて最後に「私はこれまでの議事を全て認めず、無効にする」と言うことによって、それまでの議会の議決というものが全部フイになってしまうということが行われるようになった。これを普通「リベルム・ベト」と呼ぶわけですが、全会一致を理念的に尊重するのは決して悪いことではないわけですが、そのような形でとりわけ大貴族などの私的な利害によって恣意的に議事がつぶされてしまうという状況が目立ってくる。マグナートの力が強まってくるのに比例して国の議会というものはあって無きような状況に変わってしまい、先ほど言いました地方小議会というものも、共和国全体のことを考えたいろんな決議をするというよりはむしろ、地方の親分の利益になることを勝手な時期に決めて、それが尊重されるような事が目立ってきてしまうわけです。
図版のほうを紹介する時間がありませんが、例えば左下のところに18世紀のノルブリンという画家が描いた地方小議会の有名な絵があります。地方小議会というとちゃんと椅子があって整然と物事を決めるようなイメージがあるんですが、とりわけ17世紀の後半から18世紀にかけての地方小議会というのは、これは極端なことを言いますと派閥同士の乱闘の場と言いますか、お酒が入って非常に乱暴な中小シュラフタが暴力を使いながら勝手に決めてしまうなんていうことも決して稀ではなかったと言われています。どうもこの絵も、あまり理路整然と議事をしているというふうには見えないですね。こんな状況が結構出てきたわけです。それから、例えば最もポーランド的な宮廷舞踊としてポロネーズというものがありますが、17世紀の後半から18世紀にかけてのポロネーズというのは、ショパンのポロネーズのような洗練された曲のイメージとはだいぶかけ離れた、宴会を行う一つの前座としてのジェスチャ−の誇大化された舞踊だったと言われています。17世紀後半に極端にそうなったというのはちょっと極論だとは思いますが、いわゆる日常生活において公的な生活からの隔離というものが進んだということは言えると思います。それを無秩序ととらえるのかどうかは見解が分かれるところかもしれませんが、共和国全体の公民意識というものが薄れていったのはおそらく間違いないことだと思います。
さて、ポーランドの18世紀の終わりまでの歴史の流れを見た場合、この18世紀の半ばごろから最後の30年前後の時期というのは、一度定着をした制度が変質したという前の段階を経まして、それをもう一度当時のヨーロッパの政治や社会の流れを踏まえた上で再生し新たに発展させよう、そういう時代であったと言われています。普通ヨーロッパでは18世紀半ば以降の時代を啓蒙主義の時代と言います。ポーランドにおいても、例えばポーランド最後の王様でスタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキという人物がいまして、この人物はポーランドの西洋的な顔、18世紀の西洋的な文化というものを体現した知的な君主というものの一つの代表かもしれません。彼を中心として、もちろん王様一人でやったわけではないですが、この時期のポーランドはいろんな面で変わっていくわけです。例えば社会の主導権ということで言いますと、それまではなんと言っても貴族が特権を持ち続けていました。しかし貴族の中でも、もうマグナートの子分になって自主性が無くなり、何もいいことをしなくなった貴族が増えてきた。一方では、生まれは貴族ではないけれどもかなり経済的にも政治的にも力を持ち始めた都市のブルジョアジーの人たちが出てくる。例えば都のワルシャワでは18世紀の半ばから後半にかけて人口が大幅に急増していく。それを受けて、都市民の力が拡大をしていくということがあります。その結果、そういうことを踏まえて、経済的に下位の貴族の代わりに都市民の一部をいわゆる公民に付け加えていこうという動きが出てきます。その媒介になったのが、仕組みとしては既に14世紀から定着をしていたポーランド語でノビリターツィアという貴族の身分を与える制度だったんですね。18世紀の末のノビリターツィアの特徴は、一定レベルの税金を国に払ういわゆる経済的に豊かな都市民に、毎年300人貴族のステイタスを与えるという形で、今までの士農工商のような身分の枠組みを少しですが崩そうとする性格を帯びていることです。
そして同時に政治的な面では、ヨーロッパで最初の成文憲法と言われる1791年の「5月3日憲法」というのが知られています。この憲法では、共和国の制度を踏まえてしっかりとした国の政治を打ちたてようという規定が定められます。要約しますと、ひとつはリベルム・ベトによってほとんど機能しなくなっていた議会を、必ず毎年決められた期間開き、リベルム・ベトは制度として認めず円滑な議事運営を行うことにした。そして、王様を選挙で選ぶのはシュラフタにとって非常に有利な点もあったわけですが、一方でいろんな陰謀が渦巻いてポーランド人が望まない王様が出てきてしまう可能性もあるというので、そこで王様は一度国民が決めた王家を世襲にしていこうという規定が定められます。さらに行政機関では、現代の内閣にある程度近い、大臣が集団で協議をし王様と一緒に行政をリードする。そしてその下にいわゆる文部省、財務省、外務省といった省庁を設けて内閣制・省庁制が確立され、一方であまり王様や内閣が勝手なことをしないように、チェック機構として議会が2/3以上の賛成で反対をした場合にはその大臣は辞めてもらうという制度を設けていきます。それからもう一つは、政治に参加する国民として今まではそれぞれの地方の意識を非常に強く持った代表者が集まっていたわけですが、国民というのは一つであり、どこの地方から選ばれようとこれはみんな共和国全体の代表であるという、そういう国民代表の理念がこの憲法ではっきりとうたわれることになります。
このように見ていきますと、この18世紀末の30年ぐらいの間に、一時停滞をしていた国の公の政治というものが、中流の有産者シュラフタと一部の都市民を中心として、ある程度近代的な集権国家の形で再生をしていくことになります。しかし一方では、最初にお話をしたシュラフタの自由というものが基本線としての大きな水脈として継続していったということも否めません。ですから16世紀から18世紀における貴族文化、政治文化というものは、一貫した流れが底にあって、その中でいろんな社会の経済的変化や思想の変化が動いていったということになるかと思います。その後の政治的な出来事といいますと、この「5月3日憲法」というのが制定されて5年も経たない1795年に、共和国は東のロシアと南のオーストリアと西のプロイセンの3つの国によって完全に領土を奪われて国家が消滅をしてしまうわけです。この後、文化の中核として、地主を中心としたシュラフタの社会というものがどのようになっていくのかということについては、次の田口先生のお話をお聞きしたいと思います。プリントの方の説明は飛ばしてしまって申しわけなかったんですが、また後でご質問いただければ幸いに思います。どうもありがとうございました。
<補助記号> a, (aにヒゲ); e, (eにヒゲ); c' (cにアクセント); l/ (lにスラッシュ); n' (nにアクセント); o' (oにアクセント); s' (sにアクセント); z' (zにアクセント); z. (zにドット)
(日ポ協会関西センター『WISLA』第30号 2003年9月31日発行)